はらっぱ日記

里山・はらっぱ育ちのもーちゃんです

いとこの誕生日に

f:id:nojimoe:20220401130151j:plain東京在住の一つ上のいとこ"ちーちゃん"に、おめでとうと電話した。昨年の誕生日のわずか6日後に夫さんを亡くし、その後の日々を這いずるように潜り抜けてきた彼女は、一年間の自分の心身の揺れ動きをたくさんたくさん話してくれた。

 また、(彼女は3才の時に両親を病気で亡くし、私家で中学卒業まで一緒にくらした)

私の母(彼女には伯母さん)が、

夫(私の父)を亡くした折の葬儀後の母の振る舞いの様子が忘れられないと言った。

自分を母に重ね合わせて。


私は父の葬儀の折、

父のことばかり思っていた自分が見ていない知らない母のその日の姿を

ちーちゃんから初めて聴いて

静かな驚きに心がざわついた。

夕刻、母はみんなの集まっている場に姿を見せず、

あら、何処に行ったのかなとさがすと、

家の裏で静かに1人、はき掃除をしていた

とちーちゃんは話した。


誰を亡くすよりも

連れ合いを亡くすことの衝撃が、どれほどのものであるのかを切々と語るちーちゃん。


・・・


昨夜、短編集"女のいない男たち"の中の"ドライブ・マイ・カー"を再読していて、思うことがあった。

自分の車を運転するということは

自分の人生を"自分というビークルで生きて行く"ことを言ってるみたい。と。

時に他人の運転する車に身を預ける。

"他人というビークル"にひととき身を預けてみる

それは役者として演じるということでもあるな。


みさきという女性は、自分という、人生を生きていくビークルそのものに

どこか達観を含んださわやかな気持ちを抱いているんじゃないかな。家福は自分のビークルを、みさきの運転に任せた。みさきという女性のものの見方に ほんわりと呑み込まれ、包まれることで、自分のビークルにまた乗り直す、

前よりほんの少し違った自分への、世界への、視点を加え得て。


映画も観てみたいなあ。