庭の葉や花をちょこっと取ってきて、お手洗いの竹かごにぽんと投げ入れ、ちょっぴり季節を楽しんできたけど
今は花らしいものはほとんど無い。
仕方がないから、クリスマスローズの艶やかな頑丈葉だけを入れていた。
コープさんで何かのコマーシャルをやってて通りがかりに、濃いピンクの可愛い造花を一輪もらった。
そうだ、と思いつきこの花を大きな葉っぱの真ん中に入れてあげた。
なんだかな?🙃 まあ、いいか。
お手洗いに行く度、竹かごを見る。
(もう少ししたら花がもっと開いていくな)
とか、自然に期待してる自分に少し驚く。
そうか、造花だったか^_^
だんだん日が経って、私はなんだかこの花が可愛そうになってきた。
まだ開く途中なんだ、大きく開いて笑って、少しずつくたびれて、後は花の部分だけを透明な容れ物に活けてもらって、または1枚パラッとはなびらを散らしながら静かに自分を閉じていく。
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内田センセの本を読んでいて、「死ぬ言葉」というタイトルのところにこんな文章を見つけて、はっとした。
もしも、造形的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。差は一つしかない。「生きた花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。
「美的価値」とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。
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" 内田センセの論はそれから人間の話に移っていき、「死ぬ言葉」について言及していく"
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個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。
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深く、骨の中にまで沁みこむように残るのは「死ぬ言葉」だけである。
ううん、この話の展開はわたしの頭の中にこれから残っていくなぁ。