はらっぱ日記

里山・はらっぱ育ちのもーちゃんです

阪神大震災の記憶から

29年もたったのか!

 

今年元旦の能登地震で、29年前のことを思い出して重なり、胸が痛くなる。

 

私はまだ若く仕事をしていて、宝塚の、震度7に近い地域に住んでいた。

その日早朝、マンション14階がぐらぐらと大きく揺れ、あまりの揺れ幅の大きさに(まるでジェットコースター)、これは命が危ないと思った。

"死ぬかも知れないな"と、日頃冷静な彼がつぶやいたのを覚えている。ベッドに横から机が滑りぶつかってきて、机にもたれ落ちてきた本棚のガラス戸が割れ布団にガラス片がいくらか刺さっていた。どちらもベッドから離して置いていたから、体はなんとか無事だった。

 

家の中は、特に台所は割れた食器が散らばり積み上がり足の踏み場がなく、大事にしていた居間の大時計は無残に真ん中でバキと2つに折れていた。

 

幸いに命は助かったが、だんだん明らかになっていく周辺地域の被害の凄まじさ、流れるニュース、新聞記事に毎日涙しない日はなかった。

 

長い間の停電・断水!私は最低限食べるものをなんとか用意したと思うが、何を食べたか記憶がない。

体の具合が悪かったが、2日目からは仕事(養護学校)に戻った。

校長(私は彼女によく意見をぶつけて反感をかっていたと思う)は西宮の自宅が壊れ、階段を降りるときに大怪我を負った、その姿で気丈にその日から出勤していた。どうやってたどり着いたのだろう。

生徒は全員無事だった。避難所で暮らしている子がいた。

職場は避難所になって、近くの人たちが集まり炊き出しが行われ味噌汁の匂いが職員室にたちこめていた。学校の安全点検をひととおり手分けしてやった。

 

私は寒さにやられずっと体調悪く、よくソファに横になって息子たちの動く様子をただ眺めていた自分の姿を思い出す。

息子とオットクンが、無茶苦茶になった家を片付け、水を求めて何度も行列に並び、同じマンション住民に声をかけ、手助けすることもあった。

私は自分が情けなかった。

つづく・・